その名は、ただの名牝ではなく、日本競馬に気品と強さを刻んだ“女帝”の象徴である。
オークスで世代の頂点に立ち、天皇賞・秋では牡馬の強豪たちを退けて、牝馬の可能性を大きく切り開いた。
しなやかな身のこなし、堂々たる風格、そして勝負どころで放たれる確かな末脚。
華麗なる一族に生まれ、ターフで時代を照らし、繁殖牝馬としても名馬たちへ血をつないだエアグルーヴ。
その歩みは、まさに競馬史に咲いた一輪の気高き花だった。
エアグルーヴ
女帝、15頭の牡馬を蹴散らした「恐ろしい馬」
母娘オークス制覇、牝馬26年ぶりの年度代表馬——魔女の罠に幾度も阻まれながら、それでも頂点を極めた平成の女帝
「恐ろしい馬です!恐ろしい馬だ!15頭の男馬を蹴散らした!」 1997年天皇賞(秋)、三宅正治アナウンサーの絶叫が東京競馬場に響き渡った。 桜花賞は熱発で回避、秋華賞はフラッシュで激昂して骨折—— 「魔女の罠」に幾度となく阻まれながらも、それでも女帝は頂点へたどり着いた。 トニービン×ダイナカールという「府中の鬼」の血を受け継いだエアグルーヴは、 牝馬としてはトウメイ以来26年ぶりの年度代表馬に選ばれた。
栗東・伊藤雄二厩舎
「府中の鬼」の血を宿した最高傑作
| 生年月日 | 1993年4月6日 |
| 性別 | 牝 |
| 毛色 | 鹿毛 |
| 産地 | 北海道早来町 |
| 生産 | 社台ファーム |
| 父 | トニービン |
| 母 | ダイナカール |
| 母の父 | ノーザンテースト |
| 馬主 | (株)ラッキーフィールド |
| 調教師 | 伊藤雄二(栗東) |
| 主戦騎手 | 武豊(1998年秋は横山典弘) |
| 通算成績 | 19戦9勝 |
| 主な勝ち鞍 | 天皇賞・秋(GⅠ) オークス(GⅠ) 札幌記念(GⅡ)×2 産経大阪杯(GⅡ) マーメイドS(GⅢ) チューリップ賞(GⅢ) |
| 表彰 | 1997年JRA賞年度代表馬 最優秀4歳以上牝馬 |
| 死亡 | 2013年4月23日(20歳) |
父トニービンは凱旋門賞・ミラノ大賞典2回制覇のアイルランド生まれの名馬。種牡馬としてはウイニングチケット(ダービー)・ベガ(桜花賞・オークス)・サクラチトセオー(天皇賞秋)などを輩出し、「府中の鬼」の異名を持った。母ダイナカールはノーザンテースト産駒の1983年オークス馬。この二頭を掛け合わせた結果生まれたエアグルーヴは、「社台ファームの粋を結集した配合」と評された。
デビューは1995年夏の函館。初戦こそクビ差で敗れたが、2戦目でダイワテキサスらを5馬身引き離す圧勝を見せ、いちょうステークスでも不利を克服して差し切り。阪神3歳牝馬ステークスではビワハイジにクビ差の2着と僅差に食い下がった。
桜花賞は熱発で回避——「魔女の罠」の始まり
明けて1996年、チューリップ賞ではビワハイジを逆転して5馬身差の圧勝を飾り、桜花賞の最有力候補と目された。しかし直前に熱発を起こして出走回避——この年のエアグルーヴを「魔女の罠」と呼ぶなら、これが第一の罠だった。
一転してオークスへ直行するという強行軍の中、それでも1番人気に支持されたことがこの馬の評価の高さを物語る。レースでは好位外から抜け出すと、桜花賞馬ファイトガリバーの末脚を1馬身半差で完封。母ダイナカールに続く、史上2例目・42年ぶりの「オークス母娘制覇」という歴史的偉業を達成した。
秋華賞の惨劇——フラッシュと骨折
オークス制覇後、秋は秋華賞に直行。しかしここで「第二の罠」が待ち受けていた。パドックでフラッシュ撮影を受けてパニック状態となり、返し馬でも興奮が収まらないまま出走。レース中に右前脚を骨折し、ファビラスラフインの10着と惨敗した。
骨折後は長期療養を余儀なくされた。しかしエアグルーヴは諦めなかった。
| 年 | レース | 格 | 着順 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1995年 | 阪神3歳牝馬S | GⅠ | 2着 | ビワハイジにクビ差 |
| 1996年 | チューリップ賞 | GⅢ | 1着 | ビワハイジを5馬身差で逆転 |
| 1996年 | 桜花賞 | GⅠ | 回避 | 熱発のため |
| 1996年 | オークス | GⅠ | 1着 | 母娘オークス制覇・史上2例目 |
| 1996年 | 秋華賞 | GⅠ | 10着 | フラッシュ→激昂→骨折 |
| 1997年 | マーメイドS | GⅢ | 1着 | 骨折明け復帰戦・1番人気 |
| 1997年 | 札幌記念 | GⅡ | 1着 | ジェニュイン等を退ける |
| 1997年 | 天皇賞(秋) | GⅠ | 1着 | バブルガムフェローとのマッチレース制す |
| 1997年 | ジャパンC | GⅠ | 2着 | ピルサドスキー(欧州年度代表馬)とクビ差 |
| 1997年 | 有馬記念 | GⅠ | 3着 | シルクジャスティス・マーベラスサンデーに次ぐ |
| 1998年 | 産経大阪杯 | GⅡ | 1着 | 春の始動戦快勝 |
| 1998年 | 札幌記念 | GⅡ | 1着 | 2年連続制覇 |
| 1998年 | エリザベス女王杯 | GⅠ | 3着 | 武豊騎乗停止→横山典弘に乗り替わり・メジロドーベルに敗れる |
| 1998年 | ジャパンC | GⅠ | 2着 | エルコンドルパサーに次ぐ |
| 1998年 | 有馬記念 | GⅠ | 5着 | 引退レース |
1997年天皇賞(秋)——「恐ろしい馬だ、15頭の男馬を蹴散らした!」
骨折から復帰したエアグルーヴは、マーメイドS・札幌記念と連勝。特に格上げされてGIIとなった札幌記念ではジェニュイン・エリモシックらを退け、伊藤雄二調教師は「まだ目一杯仕上げていない状態でこれなら、本番(天皇賞)も勝てる」と確信したという。
1997年 第116回天皇賞(秋)——伝説の牝馬対牡馬
当日、エアグルーヴは前年の覇者バブルガムフェローに次ぐ2番人気。しかし伊藤調教師が「この時、初めてピークに持っていきました」と語るほど状態は万全だった。
直線でバブルガムフェローが先頭へ抜け出そうとした瞬間、外からエアグルーヴが「襲い掛かった」。残り200メートルからは2頭のマッチレース。クビ差前に出てゴール——グレード制導入後、牝馬が天皇賞(秋)を制したのは史上初だった。
実況の三宅正治アナウンサーが叫んだ「恐ろしい馬です!恐ろしい馬だ!15頭の男馬を蹴散らした!これが女馬の走りでしょうか!」という言葉は、この勝利がどれほど衝撃的だったかを今に伝えている。
その後のジャパンカップでは欧州年度代表馬ピルサドスキーとクビ差の大接戦を演じて2着、有馬記念もアタマ・クビ差の際どい3着と続く好走が評価され、牝馬としては1971年のトウメイ以来26年ぶりとなる年度代表馬に選出された。
1998年——女帝の引退
5歳となった1998年、産経大阪杯を快勝して始動。夏には札幌記念を2年連続で制覇し、相変わらずの力強さを見せた。しかし秋、武豊が騎乗停止処分を受けたため横山典弘に乗り替わったエリザベス女王杯ではメジロドーベルの3着、ジャパンカップもエルコンドルパサーの2着と、またも惜しい結果が続いた。最後の有馬記念は5着に敗れ、19戦9勝の成績で現役を引退した。牝馬でありながら牡馬相手のGIを制し、引退まで常にGI戦線の最前線で戦い続けた「平成の女帝」の称号にふさわしい実績だった。
血統が語る「トニービン×ダイナカール」の完成形
エアグルーヴの血統の核心は「父トニービン×母父ノーザンテースト」という組み合わせだ。トニービンは凱旋門賞馬で、日本では「府中の鬼」と呼ばれた中長距離の大種牡馬。一方ノーザンテースト(Northern Dancer直仔)はフラワーパークの記事でも触れた通り、日本リーディングサイアーを11年連続で獲得したカナダ生まれの名種牡馬だ。この2頭の血が母ダイナカール(オークス馬)を通じて融合したエアグルーヴは、「社台ファームの粋の結晶」と称された。
天皇賞(秋)で見せた2000メートルでの強さは、トニービン産駒が特に得意とした東京・中距離の適性によるもの。またジャパンカップ・有馬記念でも互角以上の走りを見せた底力は、ダイナカール→ガーサント(仏2000ギニー)と続く欧州型の持久力の賜物でもあった。
エアグルーヴ 主な産駒
- アドマイヤグルーヴ(父サンデーサイレンス)— エリザベス女王杯2連覇
- ルーラーシップ(父キングカメハメハ)— 香港クイーンEII世C等重賞5勝。娘アドマイヤグルーヴの産駒ドゥラメンテ(父キングカメハメハ)が皐月賞・ダービー二冠
- フォゲッタブル(父ダンスインザダーク)— ステイヤーズS・ダイヤモンドS
- グルヴェイグ(父ディープインパクト)— マーメイドS(母エアグルーヴと同一重賞の母仔制覇)
【筆者の思い出】「牝馬が牡馬に勝てるわけがない」——常識を覆した衝撃
エアグルーヴの思い出を一言で言うなら、「安定感」だ。
当時、古馬になった牝馬が牡馬相手のGIで勝てるなどという発想は、正直なかった。「牝馬は牝馬限定のレースで走るもの」というのが競馬界の常識であり、牡馬と同じ舞台に立っても上位に来ることはまずない——そういう時代だった。
エアグルーヴはその常識をことごとく覆した。天皇賞(秋)を制したのはもちろん衝撃だったが、それだけではない。ジャパンカップで欧州年度代表馬とクビ差の2着、有馬記念でも3着——牡馬の一線級相手に、どのGIに出ても必ず上位に顔を出す。その「安定感」こそが、エアグルーヴという馬の本当の凄みだったと思う。
そしてエアグルーヴが切り開いたその道は、後の牝馬の時代への先駆けとなった。ウオッカ、ダイワスカーレット、そしてジェンティルドンナ——牝馬が牡馬と互角以上に渡り合うことが「当たり前」になった現在の日本競馬の礎を、エアグルーヴは築いたのだと思う。
しかも繁殖成績まで凄まじい。アドマイヤグルーヴがエリザベス女王杯2連覇、ルーラーシップが香港QE2世C制覇、そしてアドマイヤグルーヴの産駒ドゥラメンテ(父キングカメハメハ)が皐月賞・ダービーの二冠——自らの現役成績と繁殖成績、そして孫の世代の活躍まで含めて考えると、日本競馬史上最高の名牝と呼ぶにふさわしい一頭だと、今でも迷わずそう思う。
エアグルーヴ この馬を一言で言うなら
- 父トニービン×母ダイナカール——「府中の鬼」の血が生んだ平成の女帝
- 桜花賞熱発・秋華賞骨折と「魔女の罠」に幾度も阻まれながら頂点へ
- 母娘オークス制覇(史上2例目・42年ぶり)という歴史的偉業
- 1997年天皇賞(秋)——グレード制導入後、牝馬として史上初の制覇
- 牝馬としてはトウメイ以来26年ぶりの年度代表馬に輝いた
- 産駒・孫にアドマイヤグルーヴ・ルーラーシップ・ドゥラメンテと続く名牝系


コメント