トニービン初年度産駒にして母系も良血な血統馬。妹もG1馬。自身も天皇賞秋を豪脚で制した追い込み型の破天荒馬。
サクラチトセオー
「千歳」の名のごとく、末永く咲いた桜
脚部不安と格上挑戦を繰り返した晩成馬が、小島太・境勝太郎との黄昏の季節に掴んだ秋の盾
「わたしが長い人生で泣いたのはチヨノオーのダービーに次いで2回目のことです」—— 境勝太郎調教師がそう語った1995年の天皇賞・秋。 脚部不安を抱えながら格上挑戦を繰り返し、 翌年に引退を控えた小島太騎手と定年間近の名伯楽が、 6歳(現表記5歳)の晩秋にようやくGIの頂点に立った。 父トニービン初年度産駒の旗手は、「千歳」の名の通り末永く咲き続けた桜だった。
美浦・境勝太郎厩舎
トニービン初年度産駒の旗手として
| 生年月日 | 1990年5月11日 |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 黒鹿毛 |
| 産地 | 北海道静内町 |
| 生産 | 谷岡牧場 |
| 父 | トニービン |
| 母 | サクラクレアー |
| 母の父 | ノーザンテースト |
| 馬主 | (株)さくらコマース |
| 調教師 | 境勝太郎(美浦) |
| 主戦騎手 | 小島太(21戦中20戦) |
| 通算成績 | 21戦9勝 |
| 主な勝ち鞍 | 天皇賞(秋)(GⅠ) AJCC(GⅡ) 中山記念(GⅡ) 京王杯AH(GⅢ) |
| 死亡 | 2014年1月30日 |
1989年、凱旋門賞を制したトニービンが日本に輸入され、初年度産駒として社台ファームの生産馬に配合された。谷岡牧場の谷岡幸一が選んだ相手が、馬主・全演植の所有する繁殖牝馬サクラクレアーだった。その間に産まれた黒鹿毛の牡馬が、後のサクラチトセオーである。
境勝太郎調教師は入厩してきた仔馬を見て「(見栄えの悪い)トニービンにしてはよくできている」と感じたという。既に兄・サクラヤマトオーがオープンで活躍しており、この4番仔への期待は大きかった。しかし大物の予感は、すぐに脚部不安という影に覆われることになる。
脚部不安との長い戦い——デビューから重賞初制覇まで
1992年10月にデビューし2連勝を飾ったが、そのたびに脚に不安が生じて休養を余儀なくされた。翌1993年春の復帰後もNHK杯3着でダービーに出走するも11着。クラシックとは縁のない晩成の歩みが続いた。
1994年、4歳(現表記3歳)の冬、陣営は大胆な選択をする。まだ3勝、1500万下クラスの馬身でありながら、GⅡ中山記念への格上挑戦を敢行したのだ。相手はフジヤマケンザンら重賞実績馬ばかり。それでも3番人気に支持されたサクラチトセオーは、見事にこれを制して重賞初優勝を飾った。「格上挑戦で重賞を勝つ」という、この馬のスタイルが初めて結実した瞬間だった。
同秋の京王杯オータムハンデキャップでは、日本レコードの快足で重賞2勝目。末脚の破壊力が本物であることを証明した。
GI二度の涙——安田記念1番人気2着、宝塚記念の悲劇
1995年春、翌年引退を表明していた小島太騎手との最後の挑戦が始まった。まず安田記念では1番人気に推されたが、UAE調教馬ハートレイクにハナ差届かず2着。続く宝塚記念でも1番人気に推されたが、レース中に同行していたライスシャワーが骨折・予後不良となる悲劇が起き、7着に敗れた。
前哨戦の毎日王冠も4着に終わり、迎えた1995年天皇賞(秋)。同年の三冠馬ナリタブライアンの復帰戦、皐月賞馬ジェニュインの古馬挑戦という話題の陰で、サクラチトセオーは4番人気という評価だった。
1995年天皇賞(秋)——18万人の大観衆を割った豪脚
東京競馬場に詰めかけた18万人超(天皇賞・秋の入場人員記録を更新)。最内1番枠からのスタートでいつも通り後方2番手に控えたサクラチトセオーは、直線大外から豪快に追い込んだ。
残り100メートルでジェニュインが先頭に立ち、「史上初の4歳での天皇賞・秋制覇」が見えたその瞬間、サクラチトセオーの末脚が弾けた。上がり3ハロン34秒3は出走馬中最速。直線だけで14頭を抜き去り、ゴール板でジェニュインをハナ差で差し切った。
| 年 | レース | 格 | 着順 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1994年 | 中山記念 | GⅡ | 1着 | 格上挑戦で重賞初制覇 |
| 1994年 | 京王杯AH | GⅢ | 1着 | 日本レコード |
| 1995年 | AJCC | GⅡ | 1着 | 重賞3勝目 |
| 1995年 | 安田記念 | GⅠ | 2着 | 1番人気・ハートレイクにハナ差 |
| 1995年 | 宝塚記念 | GⅠ | 7着 | 1番人気・ライスシャワー事故 |
| 1995年 | 天皇賞(秋) | GⅠ | 1着 | 上がり34.3・14頭抜き |
| 1995年 | 有馬記念 | GⅠ | 3着 | 引退レース |
「わたしが長い人生で泣いたのはチヨノオーのダービーに次いで2回目のことです」と語った境勝太郎調教師の言葉が、この勝利の重さを物語っている。2週間後にはサクラクレアーの6番仔・半妹サクラキャンドルがエリザベス女王杯を制し、「サクラ」の円環が最後に大きく輝いた。
血統が語る「大器晩成」の必然
サクラチトセオーの晩成ぶりは、父系の血統からも説明できる。父・トニービンはカンパラ(Kampala)の直仔で、カンパラの父カラムーン(Kalamoun)は仏2000ギニー馬。そのカラムーンの父はゼダーン(Zeddaan)、さらにその上にはNasrullahの血が流れる。欧州の芝中距離血統を重層的に受け継いだこの系譜は、スピードよりも底力と持続力を重視する「大きなレースに強い」血統として知られる。
母・サクラクレアーの父はノーザンテースト。フォレ賞(G1)を制した名種牡馬で、1982年から1992年にかけて日本のリーディングサイアーを11年連続で獲得した。ノーザンテーストはノーザンダンサーの直仔であり、その母Lady Victoriaを通じてさらにNearctic(ニアークティック)の血も受け継ぐ。このノーザンダンサー系の血が、サクラチトセオーにスピードの持続力と勝負根性を与えた。
トニービン系の底力とノーザンテースト系の機動力——この組み合わせは、日本の芝中距離GIで最も活きる配合だった。ただしその能力が完全に開花するには、馬体が完成する時間が必要だった。それが「晩成」の正体であり、境勝太郎が焦らず待ち続けた理由でもあった。
「サクラ」の円環——小島太・境勝太郎との絆
サクラチトセオーの物語は、この馬単体で語ることはできない。小島太騎手、境勝太郎調教師、そして馬主・全演植という「チームサクラ」の集大成としての物語だ。
小島太騎手は翌1996年に騎手を引退して調教師に転身。境勝太郎調教師も定年まで残り1年余りという時期だった。二人の「最後の季節」に、サクラチトセオーは間に合った。21戦中20戦に騎乗した小島太騎手が渾身の追いを見せた天皇賞・秋——あの豪脚は、一頭の競走馬と二人の人間が紡いだ信頼の結晶だったとも言える。
【筆者の思い出】小島太 vs 岡部幸雄——二人の名手が演じた最高の結末
1995年の天皇賞・秋をリアルタイムで見ていた者にとって、あのレースはサクラチトセオーの勝利であると同時に、小島太と岡部幸雄という二人の名手が作り出した名勝負として記憶に刻まれている。
ジェニュインに騎乗していたのは、「オジサン」こと岡部幸雄騎手だ。道中2番手という絶好の位置取りから、直線で満を持して抜け出した。残り100メートルでは「勝った」と思わせる手応えで、18万人の大観衆もそう見えていたはずだ。
しかし、そこへ来た。大外から桜色の勝負服。「あんなに追ったのは何十年ぶりだよ」と後に笑った小島太騎手が、鬼気迫る形相でチトセオーを追い続ける。並んだ、競った、そしてゴール。写真判定。
結果はハナ差でサクラチトセオー。岡部騎手のレース運びは非の打ちどころがなかった。完璧な騎乗をした岡部が負けた——それだけ小島太とチトセオーが凄かったということだ。あの直線のたった数百メートルに、二人の騎手の全キャリアが詰まっていたような気がした。
小島太騎手が翌年引退するという報が流れていたこともあって、あのレースはどこか特別な光を帯びていた。岡部という最高の相手に勝ってこそ、その輝きはいっそう増した。ハナ差というのは、惜しかったのではなく、ちょうどよかったのだと今でも思う。
サクラチトセオー この馬を一言で言うなら
- 脚部不安と格上挑戦を繰り返した「遅咲き」の天皇賞馬
- 直線だけで14頭を抜き去った上がり34秒3が最大の輝き
- 父トニービン(凱旋門賞)×母父ノーザンテースト(フォレ賞)という欧州G1血統の融合
- 小島太騎手・境勝太郎調教師との「黄昏の季節」に掴んだGI
- 半妹サクラキャンドルのエリザベス女王杯と合わせ、「サクラ」の円環を完成させた


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