「ベガはベガでもホクトベガ!」——9番人気の衝撃

ホクトベガ 基本情報
生年月日1990年3月26日
性別
毛色鹿毛
産地北海道浦河町
生産酒井牧場
ナグルスキー
タケノファルコン
母の父フィリップオブスペイン
馬主森 滋
調教師中野隆良(美浦)
通算成績42戦16勝
主な勝ち鞍エリザベス女王杯(GⅠ)
フェブラリーS(GⅡ当時)
帝王賞・川崎記念×2
エンプレス杯×2 他
死亡1997年4月3日
(ドバイWC競走中)

1993年11月、京都競馬場。桜花賞・オークスを制したベガが牝馬三冠を目指して臨んだエリザベス女王杯で、9番人気の伏兵がとんでもないことをしでかした。

最内枠からスタートしたホクトベガは、ハイペースの流れを中団で折り合い、4コーナーで最内をついて先頭へ。追いすがるノースフライトをゴール前でねじ伏せ、2分24秒9のレースレコードで優勝した。「ベガはベガでもホクトベガです!」という関西テレビ・馬場鉄志アナウンサーの絶叫は、平成競馬屈指の名実況として今も語り継がれる。

しかし、このGI制覇がホクトベガという馬の本質を示していたわけではなかった。この牝馬の真の天職が「砂」にあることを、まだ誰も知らなかったのだ。

デビューから苦難の道——体力なし、勝ちきれない日々

ホクトベガは1990年3月26日、北海道浦河町の酒井牧場で生まれた。生産者の酒井公平が「兄ホクトサンバーストの好馬体の再現を狙った」という配合で産まれたが、実際に生まれた仔馬は「兄とは全く似ていない粗野な印象の馬」で酒井を落胆させた。

育成でも苦労は続く。他の馬が坂路を2本走るところを1本しか走れないほど体力がなく、デビューは3歳(現表記2歳)に間に合わなかった。しかし調教を積むうちに頭角を現し、調教助手の田畑正照は「後ろ足のバネが強すぎて乗っていて変な感じ。1ハロン15秒の追い切りをする頃には『これはモノが違う』と思った」と語っている。

4歳(現3歳)でデビューし、ダートの新馬戦で9馬身差の圧勝。しかし芝のクラシック路線では桜花賞5着、オークス6着とベガの後塵を拝した。その後フラワーカップ勝利から迎えたエリザベス女王杯での9番人気GI制覇——これが、長い旅の始まりだった。

迷走と転機——障害練習と交流競走への出会い

GI馬となったホクトベガを待っていたのは、皮肉にも「斤量地獄」だった。GI優勝馬には重い斤量が課され、ハンデ戦では常に不利な条件での出走を余儀なくされた。5歳時は9戦2勝にとどまり「フロック」と囁かれる始末。調教師の中野隆良はとうとう障害転向を検討し始める。

「牝馬には繁殖に向いた馬と競走に向いた馬がある。ホクトベガの馬体は明らかに競走型だ」 — 中野隆良調教師

実際に障害飛越の練習を開始したところ、ホクトベガはこれを難なくこなした。そして1995年1月のAJCC(追い切り1本だけで出走)でサクラチトセオーにクビ差の2着と好走。「入障はもったいない」と計画は白紙に戻された。

この障害練習が足腰を鍛え、心身を成長させたと関係者の多くは証言している。そして同年6月、転機が訪れる。中央・地方の交流競走として初めて実施された川崎のエンプレス杯に出走したホクトベガは、不良馬場の川崎2000メートルを「まったく馬なりのまま」2着に18馬身差の大差勝ち。地方競馬関係者に衝撃を与え、「砂の女王」の覚醒を告げた。

1996年——ダート8連勝、時代を席巻した女王

翌1996年、ホクトベガはダート交流競走に本格参戦する。その走りはもはや独壇場だった。

1996年 主要戦績(ダート)
レース競馬場着順備考
1月川崎記念川崎1着ライブリマウントに5馬身差
2月フェブラリーS東京1着57kg斤量をものともせず
3月ダイオライト記念船橋1着ブライアンズロマンを撃破
5月群馬記念高崎1着レースレコード
6月帝王賞大井1着入場者77,818人(大井最高記録)
8月エンプレス杯川崎1着8馬身差・1億円ボーナス獲得
10月南部杯盛岡1着ダート交流重賞7連勝
12月浦和記念浦和1着南関東4場制覇を達成

この年の帝王賞では、大井競馬場に消防法の定員をはるかに超える77,818人が詰めかけた。地方競馬が経営難に喘いでいた時代に、ホクトベガは8つの競馬場で勝ち星を挙げ、交流競走を一大イベントに変えた。

ホクトベガが打ち立てた記録(主なもの)

  • ダート交流重賞10連勝(1995年エンプレス杯〜1997年川崎記念)
  • 1996年重賞年間8勝(オグリキャップらと並ぶ歴代1位タイ)
  • フェブラリーS牝馬唯一の優勝(GI昇格後も含め2023年現在唯一)
  • JRA賞最優秀ダートホース牝馬唯一の受賞
  • 当時の牝馬獲得賞金記録(8億8812万円・2009年ウオッカが更新)
  • 8競馬場での重賞制覇

血統が語る「ダートの申し子」の必然

ホクトベガの父・ナグルスキーはカナダ産のニジンスキー直仔で、アメリカ・カナダで32戦7勝。GI勝ちはないものの4歳時にカナダの芝チャンピオンに選出された。ニジンスキーはノーザンダンサーの直仔であり、英三冠馬として欧州競馬史に名を刻む名馬だ。

このナグルスキー系の特徴として関係者が指摘するのが「ダートへの適性」だ。ナグルスキーの産駒にはホクトベガのほか、最優秀ダート馬に選出されたナリタハヤブサなど、ダートで活躍する馬が多かった。ホクトベガの蹄と球節は父の特徴をそのまま受け継いだ深い形をしており、厩務員の藤井は「他の馬と違って、産まれつきスパイクを穿いている感じだった」と語っている。

一方、母・タケノファルコンの父・フィリップオブスペインは1969年生まれの黒鹿毛で、父Tudor Melody(チューダーメロディ)、母Leridaという血統を持つ。Tudor Melodyはイギリスの中距離馬で、スピードと気性の強さを産駒に伝えることで知られた種牡馬だ。また母母・クールフェアーの父はイエローゴッド(Yellow God)で、これはRed God→Nasrullahと続く系譜。NasrullahはNearcoの直仔であり、このラインは欧州競馬の王道血統として名を馳せた。つまりホクトベガの母系には、Tudor Melody系のスピードとNasrullah系のパワーが重層的に組み合わさっていたのだ。

ドバイへ——そして別れ

1997年1月の川崎記念でダート交流重賞10連勝を達成したホクトベガは、同年3月のドバイワールドカップへの出走を表明した。このレースを引退レースとし、その後ヨーロッパの一流種牡馬と交配させて繁殖牝馬になる予定だった。

しかし長距離輸送で馬体が20kg以上落ち、裂蹄にも悩まされた。スコールによる開催順延もあり、4月3日に迎えたレース本番——最終コーナーで転倒し、後続に追突されて左前腕節複雑骨折。予後不良の診断が下され、砂の女王はドバイの空の下に散った。7歳、その生涯を全うすることなく。

遺体は検疫の関係で日本に戻れなかった。故郷・酒井牧場の墓にはたてがみが遺髪として納められ、今も眠っている。

「彼女はモナ・リザ。その強さは永遠の秘密です」 — 中野隆良調教師、川崎記念連覇後のインタビューにて

【筆者の思い出】最後まで騎手をかばった女王

ホクトベガについて語るとき、どうしても最後のシーンが頭をよぎる。1997年4月3日、ドバイワールドカップ。最終コーナーで転倒し後続馬に追突されたあの瞬間のことだ。

このとき鞍上にいたのは横山典弘騎手だった。転倒の衝撃でホクトベガは地面に倒れ込んだが、関係者の証言によれば、馬体が崩れ落ちる際、ホクトベガは倒れながらも体を捻り、横山騎手が下敷きにならないよう庇うような体勢をとったというのだ。

馬が騎手をかばう——それが意図的なものだったのか、本能的なものだったのかは誰にもわからない。しかしあれだけの衝撃の中で騎手が大きな怪我を免れたことは事実であり、ホクトベガが最後の最後まで「仕事」をしたのだとしか思えないと、当時の報道に接した多くの競馬ファンが語っていた。

横山典弘騎手はのちに、「彼女のことは一生忘れない」と語っている。騎手と馬の間にどんな言葉も超えた信頼があったのか——それを思うと、今でも胸が締め付けられる。

ホクトベガは42戦を通じて、どんな条件でも諦めなかった。障害練習にも動じず、長距離輸送にも耐え、どんな相手にも立ち向かった。そして最後の最後、砂の上で倒れながらも、自分よりも背中の人間を案じた。そういう馬だったのだと思う。競馬界屈指のいい話——それ以上の言葉が見当たらない。

ホクトベガ この馬を一言で言うなら

  • エリザベス女王杯9番人気の激走から始まった、波乱万丈の42戦
  • 芝のGIホースからダートの女王へ——転向後は10連勝の無双時代
  • 77,818人を大井に集めた、地方競馬を救った集客の女神
  • フェブラリーS牝馬唯一の優勝という不滅の記録
  • 父ナグルスキー×母父フィリップオブスペインが生んだダートの申し子
  • ドバイの地に散った悲劇が、その伝説をさらに永遠のものにした